昭和52年07月30日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 合楽理念に一番密接な関係のある御教えだと思います。どうでもここの御理解七節の御神意が分かり、またご深慮に添い奉る生き方をさせて貰うて、愈々人間世界の繁盛発展を受けていくという事が、天地金乃神様のお喜びであるという事が分からなければいけません。例えば浦島物語じゃないですけれども、一匹の亀を子供達が玩具にしておる。いじめておる訳です。でそれを可愛そうだと思うて子供達から、何がしかのお金でその亀を買い取ってそしてそれを海に放してやる。
 いわゆる親切ですね。ある時にまたそこを通りかかると、先日助けたばかりの亀が出てきてから。その良い所に連れて行ってやろうと。竜宮城という素晴らしい所があるから、そこにご案内しようと言う。それで亀の背中に乗ってまぁ竜宮に参ります。それこそ見た事もない様な素晴らしい竜宮城で、それこそ乙姫様のサービスを受けて、それこそ今まで見た事も味わった事もない味わいをしておる間に、もうあっという間にまぁ何十年という月日がたったと。
 それを感じないほどに素晴らしい所だったと言う訳なんです。で愈々帰る事になって、お土産に玉手箱を頂いて、けれどもこれは決して開けてはなりませんよと念を押されておったのだけれども、帰ってみたらもうそれこそ一番目の村、二番昔の面影は全然なくて変わってしまっておったと。呆然とした浦島太郎が、言われておった事も忘れてその玉手箱を開けたら、中から白い煙と共に自分が一遍に白髪のお爺さんになったという話なんです。おかげを受けると言う事は、大体そういう繰り返し。
 先日から一億年からも人間の何か骸骨のようなものが出たというテレビで言ってましたですね。それこそまぁ何億年地球が出来て此の方というものは、まぁそれこそ私共が想像もつかないほどしに、いわゆる天地金乃神と言うもの、神様はいわゆる昔からある神様。もう天地創造と言うか、もうこの地球が出来た時から天地の親神様のおかげを受けて、生きておる私共。そして何とはなしに矢張りその親切をする、神様に喜んで頂けるような心の使い方をする事によってですおかげを頂く。
 まぁいうなら浦島太郎じゃないけれども、亀を助けたというその親切が、それこそまたと味わえない、またかって味おうた事もない様な、竜宮城でのほんならまぁ極楽の様な生活をですさせて貰うて、そしてそれをあたらまた言う事を聞かんで、あの玉手箱を開けてしまう様な事をして、またそこに難儀に人間の難儀がそこにある。だから金光大神ご出現という事は、そういう繰り返しのない様なおかげを頂くことの為に、教祖金光大神様はご出現なさったんだ。
 天地の親神様はそこを見込んで、教祖の神様に世の中の難儀な氏子を助けてくれという神頼みをなさったんだという事。それもただ難儀な氏子を助けてやってくれと言うだけではなくて、金光大神はそれこそ家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと言う道を、もうそれこそかってそういう教えをされた沢山な偉い宗教家が出たですけれども、そういう素晴らしいおかげ、もうそれこそ何千年何億年たっても、罪とかまたは因縁とかと言うておったら、とても説けそうもないような言うならば何億年であっただろう。
 この地球上に住む人間が、ね。地球上に住むようになってこの方、それこそ浦島太郎じゃないけれども、そういう繰り返しをやってきたという事なんです。こらもう大変なだから事なんです。金光大神がご出現になったという事はね。もうそれこそ因縁も消え罪も滅びてしまうほどしの。そして金光大神の言う事に背かぬ様に私共が日常生活の上におかげを蒙らせて頂いたら、そういう一つの生き方が、愈々家繁盛子孫繁盛の道ともなるほどしの教えを、教祖の神様は天地金乃神様から、直伝でご教導を受けられた。
ご自身もおかげを受けられて、その事を話にして残しておってくださったのが、金光教なんです。ですから金光教の信心が本当にいうならマスター出来たらです。もう絶対親の代より子の代、子の代より孫の代と繁盛しなければならない道を教えてあるのです。そういうもう千歳一隅、こういう例えば時期に私共が生まれ合わせて、金光教はじまって百十幾年という間にです、そういう素晴らしい縁を頂いて、教えを頂いておりながらですあまりにも、教えが散漫になってしまって。
 それこそ親切そして亀の背中に乗って竜宮行きまでは、ほんならやっぱおかげを頂いておる。信心ちゃ有難いもんじゃある。信心ちゃ有難いという事が、私は竜宮城だと思うのです。そういう有難いものを頂いておりながらです。言う事に背く。開けてはならんぞと言われておる、いうならば御神誡のようなもんなんです。信心する者は、こうあってはならないと。それも決して難しいことではない。
 仏教で言う五戒とか、またはキリスト教で言う十戒なんて、とてもとても生身を持っておる人間では、とても実行も出来そうもないような戒律ではなくて、教典のなかにあるあの御神誡と言うものを読んでご覧なさい。十二か条になっておる御神誡。もうなそうと思えば、誰でもなせる事ばっかり。だから問題はそれが身に付くまでが信心辛抱である。血に肉になるまでが信心辛抱である。教えを余りにも散漫に頂いて、そしてまた元のうならば人間の難儀に立ち返っていかなければならない。
 それを繰り返してきた、いうならば何億年という事になるのじゃないでしょうか。まぁ何億年という事が、ぴんとこんならば、まぁ言うなら日本の建国以来のほんなら千年でもよから、二千年でもいい訳です。もっと身近に言うなら、金光教始まって此の方百十八年でも良いです。そういう言うならばまたとない、大いなる世に生まれ合わせておる。そしてご縁を頂いておりながらです。
 家繁盛子孫繁盛の元にもなっていないという事にもなると、天地の親神様の願いが成就してないという事になるのであると同時に、金光大神のおご苦労に対しても、相すまん事だという事になるのです。昨日福岡から電話が架かってまいりました。ブラジルの観光課ですかね。今度末永先生があちらに参ります時に、いろんな旅行の手続きやら、あちらでいろいろ新聞社に紹介をして下さったという様な御用をなさった方が、先日からこちらへ帰っておいでる。
 そして明日またあちらに帰られるから、まぁあちらの模様を少しでも話しておきたい、また、ことづけどんがあるなら、持って行ってあげたいと言った様な事で、まぁ夕べ十一時過ぎだったでしょう。それから電話が架かっておりましたからみんなでまぁ待っておりました。それであちらの関係の方が、三人で見えられました。それでお茶ども差し上げて、まぁ色々あちらの話を聞かせて頂いたが。
 もう本当にあちらに行って例えば道を開くという事は、私は末永先生があちらへ行って親子四人でもう行くごとして、奥さんなお腹が大きいしどういう事になるだろうかと思うて心配しよったら、まぁ大変な熱烈なご信心ちゃ本当に大変な事であって、もう本当に、その人が助かり出しておる。しかも日本人よりもその外人の人達が多いというほどしに助かっておる。しかも時々しか行かれないサンパウロのほうの布教所にも、いうならこの頃信者が段々増えてきた。
 先生があちらに行かれるという事になると、沢山な人が集まるようになった。まぁとにかくまぁ大した事だ大変な事だと。あちらでまぁ言うなら布教開拓という事は大変な難しい事。今ここのブラジルで福岡県の県人会の会長をしておられる方が、ここの浮羽郡の田主丸の方だそうです。その方のまぁ言うならば苦心談とでも申しましょうか。奥さんが十五歳の時についていかれた。そしてあちらですぐ小さい商売を始めて、全然言葉が分からない。そこで商品をずらっと並べといてからね。
 そのみんな買いに来る訳ですね。現地の人達が。そん時には品物は「ない」ちこう言うそうです。そすと買いに来た人が、そこにあるじゃないかとこう言う訳です。これはほんなら何と言うものかと言うと、あちらの人がこれは何と言うんだと言うから、そのたんべんにブラジル語でその言葉でね、それをははぁ言うなら、たわしならたわしと言うならたわしと書いて、沢庵と言うなら沢庵と書いて、ただそういう苦労をした。全然言葉が分からない。初めての時には商品を一杯出しといて買いに来る。
 買いにくる時は「なか」ち言う。そこにあるじゃないかと。あぁこれこれならこれは何と言う、この商品の名前を聞いて、それを一つ一つ手帳に書いてまたそこに貼り付けて、そのあちらの言葉を覚えたという様に。もうその艱難辛苦と言うものは大変な事だった。だからもう取り分け例えばこれが宗教それも他の宗教のように沢山な金をかけて、あの布教に出るというのじゃなくてね。
 まぁ言うなら裸一貫の様な事であちらに布教に出られる。もうどういう事になるだろうかと実は思うておったら、それこそ十日余りは一人もお参りがなかったけれども、十日も過ぎる頃からぼちぼちお参りがある様になり。しかも月次祭には百名近くの人がお参りをする。そして半分以上は外人の人達と言うのを聞いてもうただ驚いてしまうという事。言うならばそのだから本部の方で力を入れなさらんならば、もう合楽で一つ力を入れて一つしっかりあちらへそのまぁ力を入れなさったらどうですかと言う訳です。
 力を入れると言うた所でほんならあちらに金を送ったり、物を送ったりして色んなするとではない。それこそ神様のおかげで開かせて頂くのぞと言う開き方。ね。そういうね言うならば大変難しい所を通らなければ、道が開けないというのがです例えばほんなら合楽の信心言うならば合楽理念を元にしてほんなら、道開きをするならばですもう行った初めから、苦労なしに道が開けておるというほどしに、金光教の信心は素晴らしいけれどもそれを散漫にして、言うならば結局浦島太郎になってしまっておると言う事。
 そこでほんなら合楽教会がここに誕生した。そして合楽理念の確立が言うなら絶対の道と。その金光様のご信心がいわば散漫にならないように、それの生粋の所をですこういう生き方でいけばです、言うならば今申します金光様の信心は一つも難しい事は仰っちゃない。けどもあまりにも言うならば散漫ですから、それを一所に纏めて合楽理念は確立されておると。ですからそれを行じていく限り言うならば。
 ブラジルで合楽の一粒の種が蒔かれて、これから言うなら一粒万倍にもなっていこうかと言う兆しを見せておるように、お互いの信心もです私共が、いよいよそれを頂いて先ず我が身におかげを受けて、それが子に孫に伝わっていき、いよいよ子孫繁盛言うならば浦島太郎にならんで済むようなおかげを頂くために、どうでも合楽理念の確立という事がなされ、それが、家の家で言うならば家のまぁ一つの核と言うかね家のまぁ定めと言った様なものになってです。
 そこら辺の教会で言うならば合楽理念を土台にしていわば二代三代に、それが伝わっていくならばです。伝える事が難しいものであるけれどもそれを。受けようとするなら誰でも受けられる程しのなら合楽理念を確立していく。愈々天地の親神様の願いであった所の教祖金光大神神様がされたように、世の中の難儀な氏子を助けてくれた。助け続けてくれる言うならば人を天地の親神様は求めておいでる。それをほんなら教祖金光大神に言うなら打ち明ける様にして、お伝えになっておられるのが御教えです。
 その御教えがどうも私共には散漫であったけれども、それをまた合楽でです生粋のものにして、しかも言うならば本気で信心を頂こうと願うならばです、誰でも頂けれるしかも、有り難う楽しゅうしかも愉快にです、それを行じて行けれると言うのですから、これを子に孫に伝えずしておかれん。子も孫もそれをほんなら伝えて受けて行く所にです愈々、繁盛の一途を辿るところのおかげを頂かれるという事なんです。その事がです例えば今日のこの御理解のなかにはあるのです。
 と言うのはここに天地日月の心になる事肝要だとこう言うのです。その天地日月の心になる事をです言うならば、具体的に誰でもそれに手掛かりが出来足がかりが出来るように説き明かしてあるのが合楽理念です。どんなに昨日夕べ聞かせて頂いたですね、例えば南米辺りまでにも、言うならば出稼ぎに行くのですから。もうねそれこそ一旗上げなければと言う思いで、血の出るような難儀をして、ようやく道が開けてきたという。これはだから信心のない者の生き方なのです。
 金光様のご信心させて頂けばです。いわゆる合楽理念を元にさえすればです。そんな苦労は要らずに、ブラジルに道が開けて行きよる様に、言うならば世界にそういう道が開けて行こうとしておるのが、今の合楽の一つのまぁ御比礼です。だからその合楽の御比礼を身に受けるためには、合楽理念の確立が愈々急がれなければならないという事でございます。もう聞く事何億年前からです言うならば、浦島太郎のような繰り返し繰り返しをしてきたのが人間の世界であります。
 教祖金光大神がこの世に出現されたのはそういう繰り返しではない、親の代よりも子の代と、愈々繁盛して行くばかりの道を説かれたのですけれども、言うならばそれを噛んで含めるように教えてくれるものが、いわばまぁなかったわけ。いわば散漫であるわけ。まぁ私共には、聞いてもぴぃんと来ないような感じであったその御教えを元にしてです。その愈々核心に触れて行くというかねその真髄の所を合楽では身を持って私が体験してそれを身を持って、皆さんが受けて下さる。
 海外布教はもう合楽理念をもってする他はないと。いわば末永先生が言っておるほどしにです。お互いの日常生活もです。合楽理念をもって日常生活に取り組んで行く以外にはないと言うほどしの、いわばおかげを現していかれるという事がです。天地の親神様の願いに応える事ではなかろうか。お互い毎日五つの願いをなさっておられましょう。合楽理念を、いわば分かれば分かるほど、どうでも体の丈夫を願う、そしておかげを受けていかなければならん。
 その為には家庭に不和どんがある様な事ではおかげは受けられない。愈々家繁盛子孫繁盛である所の、おかげを頂かせて貰う願いを、もう繰り返ししなければならん。それはそのまま神様の願いなのだから。私共の願いと神様の願いがここに一つになるのだから。こげな余分な事をお願して良かろうかと言う事じゃ、決してないという事だ。家繁盛子孫繁盛いたします様に。みんなが健康であられます様に。家庭が愈々円満でいきます様に。そこでそんならば家庭の円満もやろう人間の健康も授けよう。
 子孫繁盛家繁盛も疑いなしと言えれる御教えも授けよう。だからその御教えを受けなければいけんという事になりますよね。体の丈夫を願うため頂くためには、どうあらなければならないか、愈々家庭が円満に不和のないおかげを頂くためには、一人ひとりがどうあらなければならないか。それをみやすうみやすう合楽理念では説いてある訳です。楽しゅう行じていけれる手立てが説いてあるのです。
 昨日敬親会でした。昨日は沢山集まっておられましたがまぁあそこの最後の千代田さんが、発表しておられました。なかなか熱心なまぁ篤信な方です。先日から小学校の時の同窓会があると言うので、その時間ぎりぎりそのここまでやってきた。バスの停留所の所まで。所が御神米を忘れておる事に気が付いて、取りに行こうと思ったけれども、取りに行くもう時間がない。はぁもう本当御神米をお供していかん事はないとにと思いよったら、前にぱっと自動車が止まった。
 そしたら孫娘が合楽に今お参りして帰りね。そしてからその御神米ば言いも何もせんとに「はい御神米」と言うてくれた。もうその時の有難い事、もう私は驚いてしまいましたち。それが毎日あちらの孫娘が参ってくるのですけれども、御神米のその孫娘に下がったのはその日だけでした。だからその婆ちゃんが、その行きよるけん自分がその入れどこがない訳ですたい。それでその言うなら御神米が邪魔になっとる訳たい。それで婆ちゃんがおるけん、「はい御神米」と言うてその婆ちゃんにやる。
 もうそん時の私は有難い事。もう本当に有難かったち。そしたら丁度その自動車に、とにかくもうあの年になるとですね。その五人しか集まらじゃったそうです。同窓会にまぁだおろうばってん、みんなその病気をして休んどりなさるとか。勿論亡くなった人が多い訳です。それで本当におかげ頂いとる事を分からせて頂いたが。丁度その車にあのバスに乗り合わせておったその同窓の人が、もう久留米近くまで行ったら、その酔うちから具合が悪うなって、私は帰ろうち言い出しなさった。
 そこで御神米を上げたらそれから元気になってから、とうとう一晩泊まりでしたそうですが、その宿まで行ってまぁ楽しゅう過した。まぁちょいとあの御神米ち言うのはどうして効くもんのち言うてから大変喜ばれた。こういうそのいわば合楽示現活動させて頂かんならん。今度だからそこん大祭ち言うごたっ時には、どうでんこうでん案内状ば私にもくれんの。どうでんこうでん私も連れて参ってくれんのと言うて、まぁ言われたという話をしております。
 合楽の方達はみんなそういうおかげの中にあるのです。素晴らしい心を神様へ向けると、そういう素晴らしいタイミングが何時でも何所ででも現れてくるんです。だから言うならば思い切りであるという事。はぁもうしもたこりゃ御神米を今日に限って忘れてきたと。それを心から思う所にもう目の前に神様が御神米を差し出して下さる。そういう信心とそういう信心感覚をです、合楽では皆さん日々習うておる訳でございます。先日二三日前の朝の御祈念に、何ち言うたかありゃ英語で頂きましたもんね。
 フィーリングだったか、フィーリングという事を何回も繰り返し頂きますから、どう言うことか分からない。それで高橋さんに聞いたけども、説明がどうも私にぴんと来なかった。それから正教先生に言うたら、大きな字引を持ってきて引いてくれました。そしたら、それにはこういう事が書いてあります。感じそれから感触または感情心地と言う。心持が良いという心地という意味だという事なんです。合楽でね信心の稽古をすると、このフィーリング、勉強しとかにゃいけんな。
 はっははは、そのフィーリングがいわば良くなる。言うならば神様とのおかげを受けるというその感じやらね。そういう感じが非常に強くなってくるです。私は合楽の方の場合はね、これが段々あの研ぎ澄まされていかなければ信心が進みよるとは言えないと思うです。そこにね言うならば素晴らしいタイミングが生まれてくる。それこそ先日佐田さんとか井上さんとかそれから稲垣さん辺りが、その前の日の竹葉会の時に発表しておられました様に、もう一日がもう一つのリズムに乗り切っておられる。
 もう有難いの勿体ないのちもういっちょ飛び越えて、それがもう愉快で愉快でたまらん。人に話したっちゃほんなごつじゃろうかと言うごたるけれども、ほんなこつと言うその言うなら素晴らしい一日中のそういうそれは、皆さんの言うならばそういう感じ方がね。非常に鋭くなっておられる証拠です。だからそういう私はあの神様との交流の事の為に、そういう感じが強くなる事のためにです、本気で言うならば教えを行じなければいけないという事です。しかもほんなら合楽理念を元にする。
 そすとそこに説かれてあるのは、天地日月の心を愈々みやすう説いてある。はぁこれが天の心であろうか、これが地の心であろうかはぁこういう事が日月の心だ。こんならそのやる気にりゃ気安かたいち言うごと気安かっです。しかも気安いと言うだけじゃなくて、有難うなって嬉しゅうなって、愉快になって来るという道なんです。ね。だからどうでも本気でね、少しぎこちないだろうけれども、今までの生き方を言うならば言うなら回り道するような生き方せにゃ駄目です。
 今までの生き方では、ほんなら金光教始まって百十八年間、こう言う素晴らしい御教えを頂いておっても、浦島太郎になってしまっておるという事です。言うならば竜宮に居続けられるほどしの信心を頂かなければいけないという事なんです。天地の親神様の願いは、それなんです。だから私共はその五つの願いである所の、どうぞ健康でありますように、お金に不自由どんする事がありません様に、家繁盛子孫繁盛の事やら、家庭不和のないが元であると言われるから、そのところの精進をさせて頂くという事。
 また天地の親神様がそうあってくれと願われているのだから。金光様の信心しよってお金にどん不自由する様な事があっちゃ出来んぞと。いつもかつも一生楽するぞと言うごたるこつがあっちゃ出来んぞと。それを今まではさぁその因縁とかね罪とかと言った様な一つの観念に縛られてしまって、もうそれは人間の苦労と言うものは仕方がないよと。どうせこの世は苦の世だ苦の世界だという観念の中にもう埋没してしまっているのだ、人間が。そこから引き揚げて頂くのが私は金光教の信者であるとこう思うんです。
 それをね愈々確かなものにしておるのが今の合楽だとこう思うんです。ほんなら合楽は何を以ってかと言うと、合楽理念の確立という事であります。世界中の氏子におかげはやってあると言うそのおかげはです、おかげを頂いておってもです、それをまた繰り返し繰り返し。栄枯盛衰世の習いと言った様な事になってしまう。金光教の信心者にはそういう事があっちゃならない。繁盛に繁盛を重ねていくおかげの頂けれる道である。それを天地の親神様の願いがされておる。
 その願いを私共が私共の願いとして願うのですから、こんなに素晴らしい事はないのです。その為にはです私共がね神様と私共との言うならば交流を愈々密にする事の為に、愈々信心生活が愉快になる事の為にです、もう些細な事にでもちょっと新聞を開いて一番に目に付いた、それが今日一日の指針になっておったり、それこそ子供の泣き声からで、それこそお夢の中からでも、はやり歌の歌の文句の中からで、私共にぴぃんと来るような働きを何時も示して下さるのですから。
 そういう示しを受けられる信心を頂くために、本気でこれを磨く事に努めなければ改まることに努めなければ。私は日々の改まりという事は今日はどういう事かとと言うたらね、今日それもある方の事をお願いさせて貰いよった。そしたらその方があの桃をいっぱいお三方一台こうやってお供えしておられるところを頂いた。もう毎日毎日その方はその桃の為にいうなら苦労を何時もしておられる。おかげを頂いたり落としたり、頂いたり落としたりしよりなはる。
 そして命に関わるごたる感じでその様な目にも時々あいなさるです。もうそげん時には、必ずその人にそういう事になっとるんです。だからもういっそその桃をですね、本当毎日毎日お供えして行くという生き方なんです。改まるという事はそういうその改まりにです必ず私共のいわゆるフィーリングですか、がその素晴らしい事になってきて、神様のおかげをキャッチする事もそうですけれども、神様が話しかけて下さるほどしに、まぁある様な事柄を迂闊にみんなが見過ごし聞き過ごししますけれども。
 それを頂きとめていけれる信心の心を、一つそういうまぁ鋭い感覚と言った様なのが、矢張り磨かれて初めて出来るのです。人間誰しにもそれがあるのです。それをまぁ少しこうまぁ言葉で言うならば、霊感と言った様な事にもなって来る訳です。万物の霊長としてのその霊感と言うものが、段々鋭くなってくる。そこには例えばおかげを落とそうとする様な時でもその霊感を持って神様がお知らせ下さるから、おかげを落とさんで済むような一つおかげを頂く。
 だから何時も自分の心を神様に向けて行く事の為に、ほんなら合楽ではそれこそ喧しい様に心行が言われる訳です。私は本当にまぁ金光教の信者の中でも、合楽にご神縁を頂いて合楽理念の勉強をしておる方達は、もう本当に素晴らしい事だと思うです。それを例えばほんなら少しあの大きく言うと、何億年架かって初めて合楽でその事が天地の親神様の願いが成就しようとしておるという事なのです。
 しかし皆さんが聞いてなさってそらちょっとそんな事はなかろう何所でんそげな事はある絶対なかったです今迄は。例えば全然知らん所のブラジルならブラジルに行ってから、もう直ぐから人がどんどん助かる。しかも言葉も分からん外人が、どんどん助かると言った様な事は、もうあり得ないとしておったんです。所が合楽理念を元にすれば、それが可能であるというその事実から言うてもです。
 それこそ大いなる世に生まれ合わせたという事。そういう言うなら素晴らしいおかげをです、愈々合楽示現活動にかけなきゃいけない。そういうおかげを銘々が頂いて世の中の人達に、それを知らせて行かなければならない。そういうね実を言うたら使命があるんです。だから使命感に立たなければいけないという事になる。折角ここには信心の稽古に来る所と仰るのですから。
 そういう本気での稽古をさせて頂いて、大いなる世に生まれ合わせた、言うならばおかげをです、頂き現していかなければ神様ががっりなさるだろう。そら私でもそのやっぱしがっかりします。二三日前の研修の時に、今日の御理解を頂いて、始めて合楽理念が分かったち言う修行生が何人かあったんです。ほらそんならあんた今まで分かったごたる顔して分かっとらんじゃったのと言いたい様な感じです。けども分かっとらんからと言うて押し込んでいく訳にはいかんのですから。
 自分自身が何かの調子にです、その事の素晴しい事に気付かせて頂いて、本気で銘々がその気にならなければです。ただ聞いたり聞き流していったりしたのでは、教えが教えになりません。一億年なら一億年の間に、人間が地球上に生存するようになって此の方、やっぱりそういう繰り返しをずうっといわゆる栄枯盛衰世の習いで来ておる訳です。合楽理念は、そういう事ではなくて愈々繁盛に繁盛が頂けて行けれる理念なんです。だから合楽理念は助かりの理念だという事になるのです。
 その場限りの助かりではないのです。そういうものですから本気でひとつ私はそれに矢張り賭けて、一生その事に賭けていっても、まぁ賭けていかなければならないです。合楽理念が絶対と言われておりますけれども、その絶対の理念ですけれども、それを愈々ほんならマスターしてそれを行の上に現して、限りなくおかげを頂いて行く事の為には、もうそれこそあの世この世を通して、もうこれで良いという事はないでしょうというほどしに、限りないおかげに繋がっていかにゃならんのですから。
 子よりも孫に伝わっていかにゃならんのですから。だからその限りない合楽理念の、言うならば、行者にお互いがならせて貰うて、天地の親神様の願いに応えていけれる信心を頂きたい。そこに初めて教祖金光大神のご出現の言うならば訳も分かるし、合楽理念を頂いたという事もです。とてもとても只事ではないと言った様なものを皆さんが、それこそフィーリングです。そう感じて下さったらです。その感じから言うならばこう手繰り寄せて行けれる信心とでも申しますか。愈々自分の物にして信心を愉快な所まで高めていかなきゃいけんと思うですね。
   どうぞ。